03.01.21:34
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03.12.01:42
「宇宙人だった彼と 不思議な体験」02
2)
私は小さい頃から毎晩夜空の星星を見上げて郷愁を感じたり、道を歩いても石も生きているから踏まないように歩いたり、毎晩空を飛ぶ夢ばかり見ている子供でした。
その夢は今でも鮮明に覚えていますが、下には色とりどりの宝石が敷き詰められた道があるのです。
空は明るくバラ色で広大な大地はず~っと地平まで平野が広がっていて、私はのんびりと寝そべりながら空に浮かんでいるのでした。夢から覚めるのがいやでしたね。
父は教師だったので貧乏でしたが 本だけは日本文学全集や外国の文学大系などが沢山有り、片っ端からむさぼるように読んでいましたが、往々にして現実と本の世界と混同するようなことがありました。
しかしそれらは私の人間形成の助けになったと思います。
弟は神童と言われるほど頭が良くおまけに勝気で、自分が勝たないと絶対止めないし泣き喚くので、その頃から勝ちを譲ることなどで勝ち負けにもこだわらなくなりました。
勉学では3歳下の弟にかなわなかったのですが、音楽や絵画や書や詩など感性を磨くほうが自分には合っていることを知りました。
教育者の父は勉強より自然の中で人はいろいろと学ぶことができると考えている人で、小さい頃から弟と私を自転車に乗せてよく自然の中で思い切り遊ばせてくれました。
夏になると魚釣りやバッタ取り、木に登ったり真っ黒になって遊んでいました。
ちょうちょやバッタの青虫など採ってきて、籠に入れて育てたものです。
冬はスキーをかついで近くの山に連れて行ってくれ、一日中スキーを滑ったりしていました。
母は素晴らしい人でなんでも出来、誰にでも優しくて厳しいながら寛容で 私の一番の理解者だったと思います。
私の特性をよく理解し小さい頃から音楽やバレエ、書など習わせてくれ、私の特性を伸ばしてくれたと思います。中学生までの洋服は全部母の手作りで、今でもどんな洋服だったか鮮明に覚えています。
そのような環境の中で育ち、貧乏でしたが心は豊かに成長させてもらったと本当に心から感謝しています。
20歳前半インテリアデザインを仕事とし、結婚して主人と一緒に会社を作りました。仕事は順調で札幌でもけっこう大きな事務所となり、随分店舗デザインやインテリアデザインなどをやっていました。
20代後半ぐらいから UFOの話題が出てきて興味を持ち「ムー」などの雑誌を読んだりしていました。「ムー」は毎月発刊されるのが待ち遠しかったですね。
その頃はたまに矢追さんのTVでの特集があったり、UFO関連の本などが出ると夢中になって読んで、絶対宇宙には知的生命体がいて、この地球にも昔から飛来していると感じていました。
その頃はまだまだ「自分の目で見てみたい」とUFOに憧れていたものです。
夢には必ず宇宙から大切な人が来てくれるというような、半分乙女チックな夢ばかり見ていたと思います。
又様々な海外のSF小説は 下手な哲学書よりずっと哲学的だと思っていましたし、実際にありうると感じていました。
地球の科学は毎年のように新説が現れたり常に変化して、現在の科学が絶対とは到底言えなかったからです。
今かってのSF世界のことが現実のこととして沢山現れてきています。
パラレルワールドや時空のねじれやタイムマシン、ワームホールなど。
そのころはまだ科学万能という風潮だったと思うのですが、絵画や詩・音楽などのアートをやっているうちにアートと科学はどこかで通じていなければならないのではないかと考えていました。
勿論哲学や精神的なものも。
双方が合いまってこそ本当の科学になるのではないかと。
もともと小さいころから地球上のすべてのものは地球も含めて生きていて意識があると考えていましたが、この地球はどこもかしこも生命で埋めつくされているのがとても不思議でした。
何故こんなにたくさんの種類の生物が密集しているのか。。
その生物全てが生存競争を日々繰り返している というのは、自分も含めてなんとも不思議で哀れでなりませんでした。
この意味はなんなのか という疑問。
そして人間については個人個人の運命の違いに加えて 生まれてくる国の運命も考えると、カルマについての考察も現代のスピリチュアル系で考えられているような結論に達しました。
決
して偶然というのはありえないと。自分で選択して生まれてくると考えるほうが、ずっと論理的です。
又人は何故より良く又より進歩しようとするのかという疑問。
そういう頃 結婚生活が破綻し一人で自活しなければならず、インテリアコーディネーターとして就職しました。
そこでお店に来た彼と出会ったのです。
私は小さい頃から毎晩夜空の星星を見上げて郷愁を感じたり、道を歩いても石も生きているから踏まないように歩いたり、毎晩空を飛ぶ夢ばかり見ている子供でした。
その夢は今でも鮮明に覚えていますが、下には色とりどりの宝石が敷き詰められた道があるのです。
空は明るくバラ色で広大な大地はず~っと地平まで平野が広がっていて、私はのんびりと寝そべりながら空に浮かんでいるのでした。夢から覚めるのがいやでしたね。
父は教師だったので貧乏でしたが 本だけは日本文学全集や外国の文学大系などが沢山有り、片っ端からむさぼるように読んでいましたが、往々にして現実と本の世界と混同するようなことがありました。
しかしそれらは私の人間形成の助けになったと思います。
弟は神童と言われるほど頭が良くおまけに勝気で、自分が勝たないと絶対止めないし泣き喚くので、その頃から勝ちを譲ることなどで勝ち負けにもこだわらなくなりました。
勉学では3歳下の弟にかなわなかったのですが、音楽や絵画や書や詩など感性を磨くほうが自分には合っていることを知りました。
教育者の父は勉強より自然の中で人はいろいろと学ぶことができると考えている人で、小さい頃から弟と私を自転車に乗せてよく自然の中で思い切り遊ばせてくれました。
夏になると魚釣りやバッタ取り、木に登ったり真っ黒になって遊んでいました。
ちょうちょやバッタの青虫など採ってきて、籠に入れて育てたものです。
冬はスキーをかついで近くの山に連れて行ってくれ、一日中スキーを滑ったりしていました。
母は素晴らしい人でなんでも出来、誰にでも優しくて厳しいながら寛容で 私の一番の理解者だったと思います。
私の特性をよく理解し小さい頃から音楽やバレエ、書など習わせてくれ、私の特性を伸ばしてくれたと思います。中学生までの洋服は全部母の手作りで、今でもどんな洋服だったか鮮明に覚えています。
そのような環境の中で育ち、貧乏でしたが心は豊かに成長させてもらったと本当に心から感謝しています。
20歳前半インテリアデザインを仕事とし、結婚して主人と一緒に会社を作りました。仕事は順調で札幌でもけっこう大きな事務所となり、随分店舗デザインやインテリアデザインなどをやっていました。
20代後半ぐらいから UFOの話題が出てきて興味を持ち「ムー」などの雑誌を読んだりしていました。「ムー」は毎月発刊されるのが待ち遠しかったですね。
その頃はたまに矢追さんのTVでの特集があったり、UFO関連の本などが出ると夢中になって読んで、絶対宇宙には知的生命体がいて、この地球にも昔から飛来していると感じていました。
その頃はまだまだ「自分の目で見てみたい」とUFOに憧れていたものです。
夢には必ず宇宙から大切な人が来てくれるというような、半分乙女チックな夢ばかり見ていたと思います。
又様々な海外のSF小説は 下手な哲学書よりずっと哲学的だと思っていましたし、実際にありうると感じていました。
地球の科学は毎年のように新説が現れたり常に変化して、現在の科学が絶対とは到底言えなかったからです。
今かってのSF世界のことが現実のこととして沢山現れてきています。
パラレルワールドや時空のねじれやタイムマシン、ワームホールなど。
そのころはまだ科学万能という風潮だったと思うのですが、絵画や詩・音楽などのアートをやっているうちにアートと科学はどこかで通じていなければならないのではないかと考えていました。
勿論哲学や精神的なものも。
双方が合いまってこそ本当の科学になるのではないかと。
もともと小さいころから地球上のすべてのものは地球も含めて生きていて意識があると考えていましたが、この地球はどこもかしこも生命で埋めつくされているのがとても不思議でした。
何故こんなにたくさんの種類の生物が密集しているのか。。
その生物全てが生存競争を日々繰り返している というのは、自分も含めてなんとも不思議で哀れでなりませんでした。
この意味はなんなのか という疑問。
そして人間については個人個人の運命の違いに加えて 生まれてくる国の運命も考えると、カルマについての考察も現代のスピリチュアル系で考えられているような結論に達しました。
決
して偶然というのはありえないと。自分で選択して生まれてくると考えるほうが、ずっと論理的です。
又人は何故より良く又より進歩しようとするのかという疑問。
そういう頃 結婚生活が破綻し一人で自活しなければならず、インテリアコーディネーターとして就職しました。
そこでお店に来た彼と出会ったのです。
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